アートはスポーツの犠牲になれ
2021年7月12日 4度目の緊急事態宣言期間に入った。
期限は8月22日まで。
東京オリンピック2020大会の全日程が含まれる。
「安全・安心な大会を開催するため」
それが政府の決断。
(この記事は緊急事態宣言の善し悪しや、政府等に対して意見を述べる内容ではございません。あらかじめご理解の上、読んでいただければ幸いです。)
【公演についてのお知らせ】
このツイートを見るたびに耳が詰まって、脳が冷や汗をかく。
緊急事態宣言によって、たくさんの公演が中止された。
美術館やギャラリーが閉鎖された。
前回の緊急事態宣言が空け、やっと集客可能になったと思った。
イベント等を企画していた人が多かった分、反動は大きかった。
先日訪れた展示会では、予定していた開催期間をかなり短縮して切り上げなければならないと出展者が話していた。
もちろん今回の件は、スポーツをする=アートを規制するという単純な話ではない。
事実、スポーツ選手もたくさん涙を吞んでいる。
もちろんスポーツ選手を心からリスペクトしている。
しかし、緊急事態宣言の有無にかかわらず、アートが犠牲になることがあまりにも多いのではないか。
私は学生時代、軽音楽部に所属していた。
ちゃんとした部室は与えられなかった。
運動部の余った物置部屋、4畳ほどの部屋にすべての楽器と機材を詰め込んで練習していた。
もちろんエアコンなんてない。
一生懸命貯めた部費で扇風機を購入したのは、私が軽音楽部に入部して何年も経った時だった。
ドアを開けて練習することすら許されていなかった。
理由は「うるさいから」
そんな中、認めてもらいたい一心で大会に出場。
地区大会に進出し、初めて賞状を貰った。
本来であれば、月に一度の全校朝礼で表彰されるはずだったが、
運動部の表彰が多かったため、私達の表彰の時間はカットされた。
これは特殊な例かもしれない。
しかし、アートの優先順位が低いと日常的に感じるのは事実である。
スポーツのためにアートが犠牲になるのは間違っている。
逆もしかり、スポーツとアートは優劣をつけるものではない。
どちらも評価されるべきではないか。
どちらも人を動かす力があるのだから。
スポーツと違いアートは明確な基準がなく、どうしても見る人それぞれの主観が入ってしまう分、評価が難しいものかもしれない。
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そんな中、日本には特殊な文化がある。
唯一国民に浸透し、毎年人々が熱狂し議論を巻き起こす、日本人にとって必要不可欠なアートがある。
「お笑い」
お笑いがアートかどうかは人それぞれ意見があると思う。
芸人さんでもお笑いをアートととらえるのを忌み嫌う人もいるだろう。
しかし個人的には、芸能という観点、文芸(話芸)という観点で見るとお笑いは立派なアートだと思う。
言葉選び、間、一つで笑いの量が大きく変わる。
その時のお客さん、空気、出順、によって運命が変わる。
何が起こるか誰も予測できない。
それでも芸人さんは人を笑わせるために苦しみ、答え続ける。
そこに正解はない。
しかし、それは無限にある可能性とも言える。
先日、FCバルセロナ所属フランス代表のサッカー選手が日本人スタッフを揶揄し、
同時に日本語を軽視する発言をしている動画が出回った。
私は日本語の繊細さが好きだ。
こうして曲がりなりにも言葉を扱っている以上、自分も言葉選びや表現には細心の注意を払っている。
それでもとらえる人によって感じ方が変わるのが言葉の難しさでもある。
だからこそアートが生まれるともいえる。
言語の壁はあるが、お笑いが日本を代表する文化になって欲しい。
お笑いを世界に伝えたいと思う。
お笑いもスポーツと同じで、時代とともに進化している。
お笑いが日本のアート界を牽引してもいいのではないか。
日本らしくてかっこいいと思う。
p.s.
アートはスポーツの犠牲になれ
ご無沙汰しています。
記事を書き溜めているもののすべて結論がまとまらず中途半端な状態でストックが増えています。
今日も書いていくうちにタイトルと結論がちぐはぐになってしまいました。
偉そうにお笑いを語れる立場でもないですし、素人は難しいことを考えずに心のままに笑うのが一番だと思いますが、ついアツくなってしまいました。
思うことが多い毎日です。